(※業務連絡※)
当ブログの画像に関するお問い合わせがありましたが、
誠に申し訳ありませんが、画像・データに関する引用の
お申し出は、ブログ開設時から全てお断りさせて頂いております。
但し、ご自分のブログ又はHP等に、当ブログのトップページや
個別記事のリンクを貼る事は、ご自由に行って頂いて構いません。
以上、宜しくお願い致します。
今から20数年前の大学生時分、学校に程近い早稲田通りの
「みよし」(現「MIYOSHI344」)というパチ屋に良く通っていた。
この店は、かなり昔からやっていて(昭和27年創業との事)、
まさに「早大生御用達」のホール。かつては、岡田彰布さん、
谷沢健一さん、松本匡史さんなど、往年のプロ野球選手達も、
早大野球部在籍中、この「みよし」でパチっていたという。
(当時、校舎傍に大学の野球場(安部球場)が存在⇒現在は中央図書館)
みよしは大変こじんまりとした店で、大通りから見ると、丁度
カタカナの「コ」の字をタテにしたような、独特な作りだった。
左右の両端に出入口があって、当時は左側がパチンコのシマで、
右側がパチスロシマ。また、その左右を結ぶ奥の数シマにも、
デジパチやハネモノが何機種か置いてあった。
(現状は全く知らないが…)
それから私がいた頃は、みよしにグルリと囲まれるように、
一軒の古い「民家兼店舗」(タバコ屋)が隣接していて、
2Fに無数の「ハト」が住み着いていた。通称「ハト屋敷」。
パチ屋の入口前には都バスの停留所があったが、辺り一面
白いフンだらけ。停留所に屋根が無ければ、酷い事になっていた。 現在、ハト屋敷は無く(火事で焼失)、ストリートビューを見る限り、
「コの字型」のパチ屋の作りが、早稲田通りからハッキリ見える。
みよしは、いかにも「学生街のパチ屋」的な風情で、入口前には
「まわりで評判 楽しいみよし」なんて書かれた回転式の看板が
クルクルと廻っていた。また、店奥の小さな景品カウンターでは、
愛想のよいオバちゃんの店員が仕切っていて、レシートを何枚も
持っていくと「今日は勝ったのね?」などと声をかけてくれた。
因みに、当時、店の2Fには「みよし」という同名の雀荘があり、
1年生の時には語学クラスやサークルの友人達によく誘われて、
いいようにカモられていた(今なら返り討ちにする自信があるが…)。
学生時分、この「みよし」で打った思い出の台は数々あるが
(ブラボーエクシード、エキサイト麻雀3、パールセブン、
エンタープライズI、フィーバーアタックGP、アメリカンドリーム2、
鮭取物語、アストロライナー、ビッグパルサー、スーパープラネット、
ホールインワン、ニューパルサー…)、特に記憶に刺さる台を一つ挙げるなら、
平和の旧要件デジパチ「ブラボーセンチュリー」(センチュリーB)だろうか。
味わい深いドットデジタルに、「舞羅望極II」から引き継いだ
チューリップ式の「オマケチャッカー」、そしてアタッカー両端で
ポンとバウンドした玉が、オマケに流れる独特の構造などが特徴。
特に、チューリップは「二回開き」となっており(「舞羅望」は
一回開き)、オマケの釘さえ良ければ、たった1度の大当りで
3500発以上出る事もザラだった。そして、みよしのセンチュリーは、
まさに、その「大量獲得」が期待できるオマケ調整になっていた。
当時、デジパチの標準的なオマケの釘調整で「2500~2900個」※
程度が当たり前だったから、この店のブラボーセンチュリーは、
出玉のボリューム感が違った。時に4000発を超えることもあり、
ほぼ「一発台」の感覚で対峙した。無論、他のデジパチに比べて、
ヘソチャッカーの釘は、1まわりも2まわりもシブかった訳だが…。
大当り確率も「1/256」と当時としてはキツめで、それほど容易には当らなかった。
※地域によっては、無制限営業などで、2000発程度が主流の場合もあった。
この機種が思い出深いのは、無論、台自体にも強い愛着があるからだが、
ことさら印象に残るのは、大学1年時、みよしのセンチュリーのシマで
よく顔を合わせた、一人の「女性」の存在である。
年の頃20代前半~半ば、どこか三原じゅん子似の綺麗な人だった
(思い出補正が入っているかも)。その彼女も、みよしのセンチュリーが
大変お気に入りのようで、授業終りの3時過ぎ辺りに店へ立ち寄ると、
このシマで一緒になる機会が多かったことを覚えている(別のシマで
出くわしたことはほとんどない)。
そういえば、「授業」で思い出したが、みよしは早大の「西門」に程近い
所にあった。この西門近くには体育館があって、私も体育の授業を受けた。
受講した科目を振り返ると、1年生時が「卓球」で、3年生が「合気道」。
(2年時も何か取った筈だが、サボってばかりで授業には一度も出なかった)
卓球は森武先生、合気道は志々田文明先生に教わった。お二人とも、今もご健在で、
森先生は「早大名誉教授」、志々田先生は「早大スポーツ科学学術院教授」
というお立場。今思えば、すごい方々に教えを乞うたのだな…と思う。 体育の授業終わり、西門の「三品食堂」で食べる「玉牛」(牛めし&生卵)の
美味かったこと(「珍味」のラーメン半チャーハンセットも絶品だった…) 。
さて、件の「三原じゅん子似」の女性だが、最初はお互いそ知らぬ振りだったが、
センチュリーのシマで何度か顔を合わせるうちに、段々と打ち解けていった。
そのうち、和気あいあいと肩を並べて打つようにもなり、「馴染みの常連同士」
という関係になった。センチュリーのシマは小さくて台も6台程度と少なかったから、
お互いの存在や台の調子などが、結構気になったりした。
リーチがかかれば、片方が「出張」して、二人でデジタルを覗き込む。当たれば共に喜び、
外れれば自らの事のように悔しがる。惜しい一コマハズレなら、「あーッ!」と嘆息する。
そして、センチュリーの出玉の多さが、当れば「ウハウハ」、外せば「ガックリ」の
ギャンブル感覚を増幅させて、いっそうアツくなった。
或いは、お互い結構なゼニを使ってハマっていて、フラッと座った一見の客が、
数百円で大当たりさせた時などは、いかにも苦々しく顔を見合わせたりもした。
ある時など、「パチンコ必勝ガイド」誌にセンチュリーの「リーチ判別」の話が出て、
リーチがかかった瞬間の右デジタルが、「0、7、8、h」のどれかから始まれば
大当りする可能性があるが、それ以外だと期待できない…といった特徴が判明。
以来、私はこの判別を普通に使ったが、彼女は攻略ネタにあまり興味がないらしく、
そのテの判別も知らない様子だった。なので、彼女の台を見ていてリーチがかかると、
すかさず右デジを判別して「大当りする、しない」を予測。そして「このリーチはダメ」
「これは来るかも」と、いかにも「カン」で予想しているように振る舞った。
で、 それが結構当ったから(当然だが)、「すごい!」「よく判るね~」と感心してくれた。 まぁ、こういったごく当たり前の振る舞いも、「孤独」にさらされ易いパチ屋では、
自分にとって、まさに「一服の清涼剤」(故・田山プロの言葉を借りると)であった。
たまに、シマに出向いて彼女の姿がないと、それだけでガッカリした気になった。
ただ、いかに彼女とシマで打ち解けても、お互いの素性やプライベートは、
一切話すことが無かった。あくまでも「センチュリーのシマ」のみの関係。
それ以上は、絶対に詮索しなかった。当然、彼女の名前や年齢、既婚か未婚か、
どこに住んでいるかといった「個人情報」は、最後まで知ることも無かった。
向うにしても、こちらが早大生かどうかを聞くこともなく、ただ純粋に
「リーチが当った、外れた」を一喜一憂し合うだけの仲であることに、
それなりに満足しているようだった。
まぁ、コチラにささやかな「恋愛感情」がなかったといえばウソになるが、
「常連同士」以上の深い関係になろうとする勇気は、ついに沸かなかった。
そんな素性も知らない彼女だが、夕方6時過ぎになると、決まってツレと
思しき年配の女性に声を掛けられて退店した。或いは、彼女は既婚者で、
夕飯の支度までの数時間を、センチュリーのシマで過ごしたのかもしれない。
とすれば、ツレの年配女性は、母親(義母)だった可能性もあろう。まぁ、
それすら知らない奇妙な関係だが、センチュリーのシマでは「戦友」だった訳だ。
そういえば、当時、みよしのデジパチのシマのドル箱は、平たくて大きい
「4000発サイズ」だったから、センチュリーで彼女が当てると、3500発以上も入った
重い箱をカウンターまで運ぶのが、如何にも大変そうだった。そんな訳で、いつしか私は
彼女のドル箱を代わりに運んでやるようになった。別に、店員に運ばせればいいだけだが、
軽々と箱を持ちあげて「腕っぷし」をアピールする事で、格好つけたかったことは確かだ。
その後、新要件時代に入って暫くして、旧要件のセンチュリーがシマから外されると、
彼女は、店にほとんど顔を出さなくなった。或いは、彼女が好きだったのは「パチンコ」
そのものではなく、リーチ時「ジリジリ」と音を立てながら右デジが回り、右デジが
ピタッと止まって大当りして、二度開きチューリップのオマケに玉がガンガン流れて、
大箱一杯に玉が溜まるセンチュリーだからこそ、連日、あのシマにいたのかもしれない。
まぁ、少なくとも、私がシマに同席したから通い詰めた、という訳ではないだろうが…。
あれから25年も経ってしまったが、今、彼女は、どこでどうしているのだろうか?
当ブログの画像に関するお問い合わせがありましたが、
誠に申し訳ありませんが、画像・データに関する引用の
お申し出は、ブログ開設時から全てお断りさせて頂いております。
但し、ご自分のブログ又はHP等に、当ブログのトップページや
個別記事のリンクを貼る事は、ご自由に行って頂いて構いません。
以上、宜しくお願い致します。
今から20数年前の大学生時分、学校に程近い早稲田通りの
「みよし」(現「MIYOSHI344」)というパチ屋に良く通っていた。
この店は、かなり昔からやっていて(昭和27年創業との事)、
まさに「早大生御用達」のホール。かつては、岡田彰布さん、
谷沢健一さん、松本匡史さんなど、往年のプロ野球選手達も、
早大野球部在籍中、この「みよし」でパチっていたという。
(当時、校舎傍に大学の野球場(安部球場)が存在⇒現在は中央図書館)
みよしは大変こじんまりとした店で、大通りから見ると、丁度
カタカナの「コ」の字をタテにしたような、独特な作りだった。
左右の両端に出入口があって、当時は左側がパチンコのシマで、
右側がパチスロシマ。また、その左右を結ぶ奥の数シマにも、
デジパチやハネモノが何機種か置いてあった。
(現状は全く知らないが…)
それから私がいた頃は、みよしにグルリと囲まれるように、
一軒の古い「民家兼店舗」(タバコ屋)が隣接していて、
2Fに無数の「ハト」が住み着いていた。通称「ハト屋敷」。
パチ屋の入口前には都バスの停留所があったが、辺り一面
白いフンだらけ。停留所に屋根が無ければ、酷い事になっていた。 現在、ハト屋敷は無く(火事で焼失)、ストリートビューを見る限り、
「コの字型」のパチ屋の作りが、早稲田通りからハッキリ見える。
みよしは、いかにも「学生街のパチ屋」的な風情で、入口前には
「まわりで評判 楽しいみよし」なんて書かれた回転式の看板が
クルクルと廻っていた。また、店奥の小さな景品カウンターでは、
愛想のよいオバちゃんの店員が仕切っていて、レシートを何枚も
持っていくと「今日は勝ったのね?」などと声をかけてくれた。
因みに、当時、店の2Fには「みよし」という同名の雀荘があり、
1年生の時には語学クラスやサークルの友人達によく誘われて、
いいようにカモられていた(今なら返り討ちにする自信があるが…)。
学生時分、この「みよし」で打った思い出の台は数々あるが
(ブラボーエクシード、エキサイト麻雀3、パールセブン、
エンタープライズI、フィーバーアタックGP、アメリカンドリーム2、
鮭取物語、アストロライナー、ビッグパルサー、スーパープラネット、
ホールインワン、ニューパルサー…)、特に記憶に刺さる台を一つ挙げるなら、
平和の旧要件デジパチ「ブラボーセンチュリー」(センチュリーB)だろうか。
味わい深いドットデジタルに、「舞羅望極II」から引き継いだ
チューリップ式の「オマケチャッカー」、そしてアタッカー両端で
ポンとバウンドした玉が、オマケに流れる独特の構造などが特徴。
特に、チューリップは「二回開き」となっており(「舞羅望」は
一回開き)、オマケの釘さえ良ければ、たった1度の大当りで
3500発以上出る事もザラだった。そして、みよしのセンチュリーは、
まさに、その「大量獲得」が期待できるオマケ調整になっていた。
当時、デジパチの標準的なオマケの釘調整で「2500~2900個」※
程度が当たり前だったから、この店のブラボーセンチュリーは、
出玉のボリューム感が違った。時に4000発を超えることもあり、
ほぼ「一発台」の感覚で対峙した。無論、他のデジパチに比べて、
ヘソチャッカーの釘は、1まわりも2まわりもシブかった訳だが…。
大当り確率も「1/256」と当時としてはキツめで、それほど容易には当らなかった。
※地域によっては、無制限営業などで、2000発程度が主流の場合もあった。
この機種が思い出深いのは、無論、台自体にも強い愛着があるからだが、
ことさら印象に残るのは、大学1年時、みよしのセンチュリーのシマで
よく顔を合わせた、一人の「女性」の存在である。
年の頃20代前半~半ば、どこか三原じゅん子似の綺麗な人だった
(思い出補正が入っているかも)。その彼女も、みよしのセンチュリーが
大変お気に入りのようで、授業終りの3時過ぎ辺りに店へ立ち寄ると、
このシマで一緒になる機会が多かったことを覚えている(別のシマで
出くわしたことはほとんどない)。
そういえば、「授業」で思い出したが、みよしは早大の「西門」に程近い
所にあった。この西門近くには体育館があって、私も体育の授業を受けた。
受講した科目を振り返ると、1年生時が「卓球」で、3年生が「合気道」。
(2年時も何か取った筈だが、サボってばかりで授業には一度も出なかった)
卓球は森武先生、合気道は志々田文明先生に教わった。お二人とも、今もご健在で、
森先生は「早大名誉教授」、志々田先生は「早大スポーツ科学学術院教授」
というお立場。今思えば、すごい方々に教えを乞うたのだな…と思う。 体育の授業終わり、西門の「三品食堂」で食べる「玉牛」(牛めし&生卵)の
美味かったこと(「珍味」のラーメン半チャーハンセットも絶品だった…) 。
さて、件の「三原じゅん子似」の女性だが、最初はお互いそ知らぬ振りだったが、
センチュリーのシマで何度か顔を合わせるうちに、段々と打ち解けていった。
そのうち、和気あいあいと肩を並べて打つようにもなり、「馴染みの常連同士」
という関係になった。センチュリーのシマは小さくて台も6台程度と少なかったから、
お互いの存在や台の調子などが、結構気になったりした。
リーチがかかれば、片方が「出張」して、二人でデジタルを覗き込む。当たれば共に喜び、
外れれば自らの事のように悔しがる。惜しい一コマハズレなら、「あーッ!」と嘆息する。
そして、センチュリーの出玉の多さが、当れば「ウハウハ」、外せば「ガックリ」の
ギャンブル感覚を増幅させて、いっそうアツくなった。
或いは、お互い結構なゼニを使ってハマっていて、フラッと座った一見の客が、
数百円で大当たりさせた時などは、いかにも苦々しく顔を見合わせたりもした。
ある時など、「パチンコ必勝ガイド」誌にセンチュリーの「リーチ判別」の話が出て、
リーチがかかった瞬間の右デジタルが、「0、7、8、h」のどれかから始まれば
大当りする可能性があるが、それ以外だと期待できない…といった特徴が判明。
以来、私はこの判別を普通に使ったが、彼女は攻略ネタにあまり興味がないらしく、
そのテの判別も知らない様子だった。なので、彼女の台を見ていてリーチがかかると、
すかさず右デジを判別して「大当りする、しない」を予測。そして「このリーチはダメ」
「これは来るかも」と、いかにも「カン」で予想しているように振る舞った。
で、 それが結構当ったから(当然だが)、「すごい!」「よく判るね~」と感心してくれた。 まぁ、こういったごく当たり前の振る舞いも、「孤独」にさらされ易いパチ屋では、
自分にとって、まさに「一服の清涼剤」(故・田山プロの言葉を借りると)であった。
たまに、シマに出向いて彼女の姿がないと、それだけでガッカリした気になった。
ただ、いかに彼女とシマで打ち解けても、お互いの素性やプライベートは、
一切話すことが無かった。あくまでも「センチュリーのシマ」のみの関係。
それ以上は、絶対に詮索しなかった。当然、彼女の名前や年齢、既婚か未婚か、
どこに住んでいるかといった「個人情報」は、最後まで知ることも無かった。
向うにしても、こちらが早大生かどうかを聞くこともなく、ただ純粋に
「リーチが当った、外れた」を一喜一憂し合うだけの仲であることに、
それなりに満足しているようだった。
まぁ、コチラにささやかな「恋愛感情」がなかったといえばウソになるが、
「常連同士」以上の深い関係になろうとする勇気は、ついに沸かなかった。
そんな素性も知らない彼女だが、夕方6時過ぎになると、決まってツレと
思しき年配の女性に声を掛けられて退店した。或いは、彼女は既婚者で、
夕飯の支度までの数時間を、センチュリーのシマで過ごしたのかもしれない。
とすれば、ツレの年配女性は、母親(義母)だった可能性もあろう。まぁ、
それすら知らない奇妙な関係だが、センチュリーのシマでは「戦友」だった訳だ。
そういえば、当時、みよしのデジパチのシマのドル箱は、平たくて大きい
「4000発サイズ」だったから、センチュリーで彼女が当てると、3500発以上も入った
重い箱をカウンターまで運ぶのが、如何にも大変そうだった。そんな訳で、いつしか私は
彼女のドル箱を代わりに運んでやるようになった。別に、店員に運ばせればいいだけだが、
軽々と箱を持ちあげて「腕っぷし」をアピールする事で、格好つけたかったことは確かだ。
その後、新要件時代に入って暫くして、旧要件のセンチュリーがシマから外されると、
彼女は、店にほとんど顔を出さなくなった。或いは、彼女が好きだったのは「パチンコ」
そのものではなく、リーチ時「ジリジリ」と音を立てながら右デジが回り、右デジが
ピタッと止まって大当りして、二度開きチューリップのオマケに玉がガンガン流れて、
大箱一杯に玉が溜まるセンチュリーだからこそ、連日、あのシマにいたのかもしれない。
まぁ、少なくとも、私がシマに同席したから通い詰めた、という訳ではないだろうが…。
あれから25年も経ってしまったが、今、彼女は、どこでどうしているのだろうか?