1993年(平成5年)にマルホンから登場した現金機デジパチ「キューティーガール」
★カラー液晶モニタ搭載
★賞球…5&10
★大当り確率…1/209
★上・中・下段とクロスの計5ライン有効
★デジタル停止順…左⇒右⇒中
★大当り図柄…赤7、スイカ、チェリー、バニー、二段BAR、ベル、プラムの計7種類
★最高16ラウンド継続、出玉は約1500個
★どの図柄で当っても、次回大当りまでの確変(小デジタル)に突入
★但し確変ループ無し(2回ワンセット機)
★確変中は、小デジタル確率が1/11から10/11に10倍アップ。小デジ変動時間も短縮。
(但し、メインデジタル確率は不変)
★2回ワンセットで出玉は3000個弱
★意図的な連チャン性…なし(モーニング疑惑もあったが、ノーマル機と判明)
何を隠そう、本機は「マルホン初となる、本格的・カラー液晶モニタ搭載機」である。
ここで、「本格的」としたのは、「カラー液晶デジタル」そのものでいえば、すでに同社は1992年(平成4年)の時点で、カラー液晶を使った新要件機「スーパービジョン」を出しているからだ。
ただ、このスーパービジョン、前年(1991年)登場した業界初・カラー液晶モニタ搭載機「麻雀物語」(平和)に対抗して出たが、技術的な問題か時間的な制約かは判らないが、麻雀物語に比べると液晶完成度はイマイチといわれた(個人的には、あの怪しげなデジタルも好きだったが…)。
スーパービジョンの液晶画面では、通常時も大当り中も、人物や図柄などの細かいグラフィックデザインは見当たらず、7セグを模したような、カラフルで巨大なデジタルが構えていた。一応、カラー液晶独特の派手さ・美麗さ(デジタルや背景)はあったが、「色彩が仰々しくて、しばらくすると目が疲れてくる」と揶揄されたりした。
で、このスーパービジョンは、麻雀物語への対抗心が強すぎたせいか、保留4個目での連チャン率が30%近くあり(私が好んだ最大の理由がコレ)、登場後すぐに「販売自粛」となってしまった(代わりに、兄弟機「ワイドビジョン」「カラービジョン」「ゴールドビジョン」を販売)。
(マルホン初のカラー液晶デジパチ「スーパービジョン」 1992年登場の保4連チャン機)
この間、他メーカーも麻雀物語に追随する形で、カラー液晶モニタを使ったデジパチを、次々にデビューさせた。三共のフィーバーパワフルIII(V)やフィーバーガールズI、西陣の麻王、三洋のブルーハワイ、アメリカンドリーム(II)、野球拳、奥村のナンパ大作戦やドリームGP(II)、豊丸のピカイチ天国(V)、京楽の遊ぶんジャー、三星のポンポンガールと、枚挙にいとまがない。当の平和自身も、ブラボーミリオン(SP)、ダービー物語、プリンセス物語、綱取物語…と「液晶モニタ・連チャン機路線」を継続していた。
当然、液晶の「デキ」自体は千差万別だったが、スーパービジョンの「疑似7セグ」に比べれば、いずれも凝った作りだった。また、当然ながらどの機種も「連チャン」を大きなウリにしていた。
こうした流れの中で、「液晶レース」に先んじたつもりが、むしろ遅れをとってしまったマルホン。だが、ようやく’93年秋に本機を送り出して、本格的な液晶ブームに乗ったのだ。
以前、記念すべき「自社初のカラー液晶機」(スーパービジョン)が、生産中止の憂き目にあったマルホンにとって、本機を世に出した感慨は、相当のものだったに違いない。
だが、しかし…本機がホールに登場した「タイミング」というのが、いかにも悪かった。
本機の直後に出たカラー液晶3回権利モノ「キューティーバニー」(ニューギン、1994年2月)が、その強力な「数珠繋ぎ連チャン」によって、一躍大人気となったからだ。
どのホールも、まさに「キューティーバニー旋風」が吹き荒れた。しかし、そのせいで、似たような名称を持つ本機は、すっかり印象が薄れてしまった※。
※本機と同一液晶を使った「キューティーバニー」という兄弟機も存在したが、設置が少なく知名度も低い。なお、このネーミングが、ニューギンに対する「あてつけ」か否かは不明…。
また、「マルホン=連チャン」と認識されがちだった中、仕込まれた連チャンが無かったことも、ブレイクしなかった要因の1つといえる(ちょうど連チャン規制期に重なった為、やむを得ないが…)。
そんな訳で、本機はホールで特段目立つ「人気台」とはならなかった。しかし、「ゲーム性」という点でみれば、他の液晶デジパチと一味違った「個性」も、しっかり兼ね備えていた。
モチーフ的には、当時ジュリアナなどで流行った「ボディコンブーム」にあやかり、派手な衣装を着たセクシーギャル達が、盤面や液晶画面で大活躍した。
そういえば、この時代(1993年~1994年)、「C.C.ガールズ」「ギリギリガールズ」「イケイケガールズ」「T-Backs」「B.C.G」「シェイプUPガールズ」「セクシーメイツ」「Chu-DOG」「ピンクサターン」「J-KISS」「みるく」「バイブセダクション」などのセクシー系女性グループが、メディアに出ずっぱりだった。もちろん、「荒木師匠」も流行っていた。世の男性共をアツくした彼女達は、今いずこに…。
(本機の大当り画面)
また、大当り中も「スーパービジョン」とは打って変わった凝り様で、ミニスカや水着、バニーなどに身を包んだピチピチギャル(⇐死語)が、ジュリアナのお立ち台よろしく、ガンガン踊っていた。
さて、次に本機のスペックだが、派手な連チャンこそないものの、大当り後は図柄不問で必ず確変(小デジタル)に入る、「2回ワンセット機」となっていた(確変ループ無し)。
普段は単発ばかり引いてしまう「超ヒキ弱」な人間でも、存分に確変を堪能できたのだ。
大当り確率も1/209※※で、良心的な数値といえた。賞球「5&10」で、大当り1回で約1500発、2回ワンセットでも3000発足らず。だが、「確率1/209のノーマル機で、出玉が3000個」と考えれば、むしろ甘いようにも感じた(このスペックを警戒して、ヘソを過剰に締める店も…)。
因みに、本機は液晶デジパチとして、最初に「ヘソ5個戻し」を採用している。その為、玉持ちが他の現金機(7個戻しが大半)よりも少々悪いのも、通常時の特徴だった。
※本機の大当り確率について
現在、ネット情報の大半が、本機の大当り確率を1/216としているが、手元の解析資料では、それよりやや甘い「1/209」である。
(大当り抽選用乱数=「0~208」の209通り、当選値=「60」)
もちろん、「1/216」とする当時の資料も複数あるが、解析データを伴わないものが多い。
よって、当ブログでは、本機の大当り確率について「1/209」説をとる。
因みに、小当り確率は通常時=1/11、確変時=10/11。小当りの抽選用乱数は「0~32」の33通りで、通常時は「0~2」の3コマが当選値(3/33=1/11)。一方、確変中は当選値が「0~29」の30コマに増える為、小当り確率は10倍アップする(30/33=10/11)。
では次に、リーチアクションを振り返ってみよう。デジタルの停止順は「左⇒右⇒中」で、三洋の液晶デジパチ「アメリカンドリーム」などを彷彿とさせたが、「デジタルのスベリ」といった独特なアクションもあった(⇒後述)。
当時流行りのダブルリーチも複数存在した。クロスラインでは「赤7/スイカ」と「二段BAR/ベル」の2つ、平行ラインでは「チェリーとバニー」の1つ(但し、平行ラインは両図柄が揃ってしまう為、あまり意味なし)。
本機のリーチアクションには、
(1)ノーマル
(2)左デジタル再始動(スベリ) (⇒SPリーチ)
(3)右デジタル再始動(スベリ) (⇒SPリーチ)
(4)左右デジタル再始動(スベリ) (⇒SPリーチ)
(5)中デジ2段階
の計5パターンが存在した。いずれのリーチパターンも、大当りの可能性アリ。
特に、デジタルの動きが面白いのは(2)(3)(4)の「再始動」(スベリ)だ。通常の左右停止とは異なり、左右のデジタルが「ズレ目」の状態でいったん停止後、「ピュイ」という効果音と共に、上or下に1コマ動いて、停止位置が変わることがあったのだ。このスベリが起これば、左右ズレ目がテンパイへと変わって、必ずリーチが掛かった。
スベリには、「左デジのみ上or下に1コマ動く」、「右デジのみ上or下に1コマ動く」、そして「左右両方が上or下に1コマ動く」という計3パターンがあった。
しかも嬉しい事に、スベリを伴ったリーチは必ずSPリーチ扱いとなり、中デジが「大当りか前後1コマ」でしか止まらないようになっていたのだ。スベリがアツかったのも当然といえよう。
また、デジタルがスベる瞬間の「ピュイッ」という音も、妙にクセになった。
スベリ以外にも、中デジがいったんハズレ停止後、再始動する「二段階」アクションが存在した。こちらは、100%大当りの「鉄板」アクションだった。
なお、二段階は、中デジが大当りの「9コマ又は12コマ」手前でいったん停止した時のみ発生。中デジの図柄配列さえ頭に入っていれば、二段階が期待できないパターンも先読みできた。
因みに、大当り時におけるリーチ振分率(選択率)は、以下の通り。
ノーマル…1/4、左スベリ…1/8、右スベリ…1/8、左右スベリ…1/4、二段階…1/4
★★当時の実践店…渋谷・道玄坂小路「ホワイトバード」(閉店)など
(在りし日の渋谷「ホワイトバード」)
当時、井の頭線渋谷駅ガード脇(下)のホール(タイガー、大番、サイバースロット(⇒大番2F)、ウチダ、柳小路、日拓、パチスロファイン、パチスロ55)でハシゴした後、さらに足を伸ばして、「道玄坂通り」と「文化村通り」を結ぶ、小さな路地(道玄坂小路)に出向くことがよくあった。
この路地の道玄坂通り側入口(角地)には、当時「ユウキ屋」という若者向けの洋服屋があった。そのまま路地の坂を上り、ラブホテル街に抜ける小階段や、レンガ造りの台湾料理店「麗郷」などを左に見ながら奥へ進むと、路地の左側に「キャット」というパチ屋があった。
(在りし日の渋谷「キャット」)
そして、この「キャット」のさらに二軒奥(路地左)に、「ホワイトバード」があった。この狭い路地では、当時2軒のパチ屋が営業していた訳だ。本機をしばしば打ったのは、ホワイトバードの方だ。
昭和チックな古い路地にあったホワイトバードは、規模こそ大きくなかったが、大きなマイクパフォーマンスが通りまで聞こえる程の活気があった。
なお、ホワイトバードの入ったビルの右脇には「日本一安いテレクラ、入会金無料、一時間800円(はぁーっぴゃくえん)!」でお馴染み「テレクラ・リンリンハウス」があった(入った事はない)。
当時のホワイトバードは、「サービスデー」なるイベントをよくやっていた。とりわけ、デジパチの「無制限サービス」が印象に残る。「毎週〇曜日はデジパチ無制限」、「スーツ姿の人は無制限」(⇐学生時代、実際にスーツを着込んで出向いた事アリ)、「レディースデー(あらかじめ店側が決めた数字で当たると、機種不問で女性は無制限)」など、地味だがおいしいイベントをやっていた。表の自動ドアには、そうした類のポスターが、ベタベタとバーゲンセールの如く貼ってあった。
ついでに思い返すと、ホワイトバード周辺(道玄坂小路)には、今はなき香ばしい小店(商店)が幾つも並んでいた。店の向かいには、「アメリカ屋靴店」や「フレッシュマンベーカリー」(パン屋)といった風情ある店舗が営業していた。お好み焼きやもんじゃを出す「清崎」という、こじんまりとした店もこの路地で営業していた。いずれも現存せず、今や随分と趣が変わった感がある。
さらに、道玄坂小路のすぐ先には、「渋谷・道頓堀劇場」という香ばしいストリップ小屋があり(これは現存する)、ホワイトバードで本機を打っていた当時、影山莉菜、星ひかる、渚真琴、花岡舞といった有名どころの写真が店頭を飾っていた(横目に眺めていただけで入った事はない)。
余談だが、グーグルマップ(ストリートビュー)で「ホワイトバード」の跡地を見て、「何か、当時の形跡は残ってないか」と観察したところ、こんなものを見つけたので紹介したい。
(C)google
ストリートビューで見た、渋谷「ホワイトバード」跡地(渋谷区道玄坂2-25-14)
現在は居酒屋「おだいどこ はなれ渋谷道玄坂店」が営業している模様。なお、画像左に海鮮居酒屋「八吉」(道玄坂店)の看板も見えるが、コチラは既に閉店とのこと。)。
この画像をみると、上の白枠で囲った部分(矢印参照)に、何やら看板のようなものがみえる。
「ん?この形は以前どこかで見たような…」と思い、さっそく「ホワイトバード」の店舗画像と見比べてみた。
すると、案の定、ホワイトバードの店先にあった縦長なネオン看板の形状と、ピッタリ符合した。
うーん、閉店からずいぶん経つのに、いまだ撤去されないまま残っていたとは…(感慨深げ)。
まぁ、パチ屋が別の業態に変わった時、看板部分を「再利用」するというのは、結構見かけるが。
そんな訳で、現在もストリートビューを開けば、かつてのホワイトバードの「名残」を確認できる。
90年代の渋谷・道玄坂小路に思い入れのある方は、一度ご覧あれ。
(C)Google
こちらは「キャット」跡地(渋谷区道玄坂2-25、小島ビルと福田ビルの間)。
既に、当時の建物は跡形もなく取り壊され、完全な更地になっている(2013年5月の画像)。
※1991年(平成3年)の渋谷駅周辺パチンコマップはコチラ
http://blog.goo.ne.jp/selfconfide777mc/e/82afcfbd99ff6297a82b93e18064dee1
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キューティーガール(マルホン、デジパチ)
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