明日、7月4日は「ナナシーの日」。
言うまでもなく、名著「パチプロ日記」で有名な、東大出身のパチプロ・作家、田山幸憲氏の命日だ。
(タテから出ようがヨコから出ようが、「東大出身」に変わりはない)
14年前の2001年7月4日午後5時3分、心不全により惜しまれつつ逝去。享年54歳。
(舌癌との闘病中であった)
「ナナシーの日」は、生前、氏が好んだ一般電役「ナナシー」(豊丸)に因んだもの。
当ブログでは、これまでたびたび、田山さんにまつわる記事を書き綴ってきた。
「ナナシーの日」に際して追悼記事をアップするのも、これで3回目となる。
こうして記事を度々上げているうち、故・田山プロに対する親愛の念は、現役時よりも遥かに深くなりつつある。
果たして何を書こうかと、今回も色々悩んだ。そして、当時の田山さんを偲ぶ意味でも、氏と縁の深いパチンコ台で、当ブログでこれまで取り上げていないもの、かつ自分自身も思い入れのある機種を、「パチプロ日記」と絡めて回顧しよう…という気になった。
そして、選んだ台はコチラ。
1991年(平成3年)に三洋から登場した新要件ハネモノ「サーカスIII」
・賞球7&15
・最高15ラウンド継続
・最大貯留数・・・7個
・ヘソチャッカー入賞時のBGM・・・ビビディバビディブー
・大当り中(ラウンド前半※)のBGM
1R~8R スーザ「星条旗よ永遠なれ」(第三旋律)
9R~14R ワルツ調のBGM(曲名不明)
15R エルガー「威風堂々」
※ラウンド後半はBGMが変化
本機は、記念すべき三洋の新要件ハネモノ第一弾だ(同時期には「アマゾンII」や、本機の電チュー搭載VER「サーカスII」などの新要件ハネモノも、同社からデビュー)。
文字通り、サーカスをモチーフにした台である(当時、「サーカス」と名の付く台が、各メーカーから出ていた)。
ご存知の方もいると思うが、このサーカスIII、田山プロが池袋西口の「山楽」(S店)をネグラにした時期に、地下のハネモノシマで、メイン機種の1つとして追った台である。
(当時の「山楽」)
ピエロ、ライオンなどが描かれたメルヘン調の盤面、スライド式のハネ、センターでクルクル回り続ける赤青の回転体、マジカペチックな移動式Vゾーンと、多くの特徴を備えたハネモノ。
90年代初頭の平成3年、新要件初期のハネモノというと、西陣「ニューモンロー」、三共「サンダードラゴンGP」、平和「ニュートキオ」などが人気を博したが、本機も、それらに次ぐヒット機種となった。
私自身、当時の地元(O線Y駅L店)で、導入直後からよく追っかけた。ただ、それまでハネモノシマに並んでいた「遊べる」旧要件機(スーパーブラザース、スタジアム、パチンコ大賞など)が、モンローやニュートキオ(L店にサンダードラゴンは入らず)といった新要件の大量獲得機に「侵食」されていく様子に、一抹の不安がよぎったのも事実。正にホールは、「小銭から大銭の時代」に移行しつつあった。「ハネモノが、遊びにくくなった…」パチ歴一年少々の自分でも、それは痛感せざるをえなかった。
ただ、このサーカスIIIは、初当りの険しいモンローやニュートキオよりも、「取っ付き易い」印象もあった。実際、1000円以内の初期投資で、打ち止め終了に持っていった事も多い。シマには、まだ800個サイズの青い小さなドル箱が並んでいた。もちろん、「出る」と踏んだ台でVに嫌われ続け、返り討ちにあったケースも多いが…。
同時に、他の大量獲得機よりも、途中で「パンク」する頻度が高かった。サーカスIIIとの戦いは、まさにパンクとの戦いでもあった。それを回避する為の「9個止め」攻略も編み出された。
件の「パチプロ日記」でも、本機のパンクに苦しむ場面の描写は多い。以下は、その抜粋。
「続いて、同じ並びの325番へ。単なる横の比較から。と、二百円のオトシ一発でVに来たのは、ラッキー。だが、ア然とするようなパンクをやってくれた。出玉は四百個程度。すぐにまたかかる。「今度こそ!」と力んだら、またもや同じようなパンク。連チャンして、出玉が八百個とは……。そして、当然の如く、その玉を呑まれてしまった。」(91年4月23日の日記より)
「ところが、(ラウンド)五回目あたりで突如ヨリが悪くなって、パンク。出玉は五百個ぐらいか。昨日来の最低新記録。その玉を四百個打ち込んで、またV。と、今度はもっとひどいパンク。上皿も出ない。たちまち最低新記録をぬり変えてしまった。と、またすぐにかかって、また惨めなパンク。三度かかって、五百個を越えられない。とにかくヨリが悪すぎる。」(93年3月15日の日記より)
それでも、好調で15ラウンド完走させれば、2000個近い大量出玉があった。これが連チャンで完走となれば、あっという間に打ち止め終了。ただ、その頻度において、モンローやニュートキオ、サンドラ等と比べると、圧倒的に低かった…ということである。
ではここで、本機のゲーム性を簡単に紹介。
ハネ開閉時間はオトシ0.3秒、ヘソ0.5秒×2。
「サーカス」と書かれたスライド式のハネは、開閉時間の短さもあって、玉を拾いそうで拾わないイメージ。ナキはいいのにハネに乗らず、イライラ、ジリジリさせられたことも多い。
そんなハネに拾われた玉は、上段ステージから下段奥に落ちた後、中央で反時計周り(周期は4秒)を続ける、赤・青二色の小さな回転体にアプローチする。
回転体の外周には、等間隔で6つの突起(柱)が立っており、下段奥から来た玉は、この突起をすり抜けて回転体の中を通るか、突起で外に弾かれるかして、手前に転がる。
ただし、回転体に乗っても、手前に転がる時、突起に弾かれて玉は左右(特に左)に逸れ易い。一方、回転体経由で手前にうまく直進すると、V入賞のチャンスだ。
回転体の手前には、「HIT」と書かれたVゾーンがある。普段は停止しているが、始動チャッカー入賞を機に、マジカペよろしく左右に動く(右⇒左⇒中と移動)。その回転体を通り抜けた玉が、手前のVにうまく拾われれば大当り。
オトシ入賞時のハネ開放は「0.3秒」と短く、チャンスは一瞬。しかも、ハネに乗った玉が回転体からVにアプローチするタイミングも、大体似たようなものになる。この時、Vゾーンは真ん中に戻っている事が多く、回転体の外側に流れるとVに決まりにくい。やはり、「直進ルート」が大当りの王道パターン。
一方、ヘソ入賞の場合は、「0.5秒×2回」開放と、チャンスはより広がる。しかも、回転体から来た玉が左に流れた時、やはり左に動いていたVと、タイミングがピッタリ合う事がある。「動くVゾーン」の恩恵を受けやすいのは、ヘソ入賞時であろう。それでも、やはり真ん中からVに決まるパターンが最も多かった。奥から来た玉が、回転体の突起をすり抜けて、「矢の如く」直進してVに決まるパターンは、見ていて気持ちがよかった。
大当りになると、役物上部から銀色のリングが降下。回転体(大当り中も回転を続ける)の外周をすっぽり包む格好で、回転体の中に玉を複数貯留。貯留は最大7個。各突起の間に6つと、中央に1つ。只、6個貯留まではスムーズにいっても、7個貯留の成否は、貯留の形と役物入賞のタイミングに左右された。当然、貯留が多いほど、継続もし易い。ヨリの悪い台は貯留もしづらく、パンクの危険も高い。
Vゾーンは、大当り中も左右に動き続ける。7個貯留がある為、Vへの再入賞は基本的に貯留解除後だが、貯留中、後続の玉が回転体を乗り越えてVへ入ることもあった。
役物10個入賞後、若しくはハネ18回開閉後に、貯留は解除。つまり、最後の最後での解除だ。回転体に収まっていた貯留玉も、動くVゾーンめがけて、一斉に手前へ転がる。
ただ、回転体は「反時計回り」なので、貯留解除後は遠心力で左方向に転がり易い。その為、解除の瞬間、Vが中央よりもやや左にあれば、V入賞し易い(クセにもよる)。逆に、Vが大きく左右に寄っている時(特に右端にある時)は、Vを外し易い。
だが、大当り中、普通に打っていては、10カウントで貯留解除の際、Vが右に大きく寄っているケースもあって、パンクの危険も高くなる。
一方、ハネ18回開閉後、貯留が自動解除される瞬間は、Vゾーンが常に「やや左」の理想的なポジションに来るようになっていた。この特性を利用して、役物9個入賞で打ち出しをストップし、ハネ18回開閉後の自動解除を待てば、Vが中央左寄りにいる時に貯留が解除され、継続率も自然とアップする。これが、当時発覚した「9個止め」攻略である。
しかしながら、この9個止めは、パンクの可能性を下げても、「100%V継続した」訳ではない。貯留解除時、玉が不当に暴れる「クセ悪台」もあって、たとえ9個止めしても、いとも簡単にパンクする悲運に泣かされる事が、決して少なくなかった。ことさら完走しにくい「デキワル」である。
また、貯留が解除された瞬間の突起の位置によって、解除された玉の動きも微妙に変わる為、V継続の成否は、運に左右される部分も多かったといえる。ともかくも、できるだけ多くの玉を回転体に乗せる事が、継続には不可欠だった。
因みに、田山プロも日記で「9個止め」に言及しているが、その効果については、少々懐疑的な立場をとっていた。これは、田山氏独特の「矜持」というか、自分なりの「攻略理論」に基づくものだろう。つまり、「タテの比較」と「パターン認識」に勝る攻略は無し、との持論に基づくもの。その姿勢を否定する気など、私には毛頭ない。
「さしたる打ち込みもなく、かかるにはかかるが、前半のパンクばかりで一向にラチがあかない。“九個止め”なんてやったって、ムダな抵抗だ。出玉を減らしてパンクしてりゃあ、世話はない。」(1992年3月22日の日記より)
「二千二百円目のフシを逃して以来、初めてVに来たのが、八千四百円目だったか、とにかく、これもまたゼロパン。九個止めなんかやったって、何にもならない。返ってムカつくだけ。それにしても、何だ、この台は。今までに三度かかって、三度ともゼロパンじゃないか。ふざけてやがる!頭に来たから、ぶん投げてやろうと思った。」(1992年9月9日の日記より)
補足すれば、「9個止め」攻略はパンク回避に一役買ったが、9個以上は役物に入賞しない為、たとえ完走しても、普通に打って完走した時よりも、明らかに出玉は少なくなる。また、本機では、18回目のハネ開放で拾われた玉(或いは玉突きした貯留玉)が、やや遅めにVに入った場合、その直前に始動チャッカーに入賞していれば、再び1ラウンドに戻る「ダブル」の現象が稀に起きた。しかし、「9個止め」をしている限りは、ダブル獲得のチャンスも少なかったのだ。
そこで、9個止めを改良した、新たな「技」も開発された。9個入賞で止打ちを行った後、18回目のハネ開閉に合わせて打ち出しを再開して、タイミングよく玉を拾わせる方法だ。これなら、9個止め本来の目的も果たすし、10個目を拾って出玉も増え、さらにダブル発生の可能性までアップして、「一石三鳥」となった。
なお、大当り中のラウンド数表示は、スライド羽根の上に並んだ、8つのLEDランプで行う。ラウンドが進むごとに、左から一つづつ点灯。赤ランプ8つなら8ラウンド目だ。9ラウンド目からは、再び左が1個だけ点灯するが、この時ランプの色が赤から緑へと変わる。
田山さんの日記でも、ランプの色で大当り中の継続ラウンドを示唆していた。「赤ランプの終りあたりでパンク」とか、「今度はパンクだったが、青ランプの範囲」といった感じだ。「緑」ではなく「青」と表現していたのも面白い。
さて、機種紹介はこの程度にして、ここからは、当時の「パチプロ日記」を中心に、田山さんとサーカスIIIとの「対戦戦歴」などを振り返ってみたい。
なお、本記事を書くに当り、「パチンコ必勝ガイド」誌のバックナンバーを引っ張り出して、「1991年7月号」~「1993年7月3日号」の約30冊分に連載された日記の、ほぼ全てに目を通した。
(単行本に収録されていないものが多い為)
また、「池袋S店末期~溝の口時代」について書かれた単行本「パチプロ日記II」(白夜書房)、平成4年10月の「山楽・特別書き下ろし実戦」が収録された「一攫千金・FINALパチンカー必勝道」(講談社コミックス)、そして、こちらもS店末期と溝の口時代が描かれた、劇画「田山幸憲パチプロ日記4」(溝の口編)(小池書院)なども、少なからず参考にした。
さらに、日記で田山さんがサーカスIIIと対峙(クギ読み、実戦)する場面をピックアップしてワープロに書き出していったところ、四万字近い「長編」が出来上がった。いわば、「パチプロ日記・池袋サーカスIII激闘編」とでもいうべき内容だ。まさに、「世界にただ一つだけ」の読み物。
ただ、これをそっくりアップしてしまっては、著作権上大いに問題があろう。コチラは、あくまでも個人で楽しむにとどめて、本記事での公開は差し控えたい。
ただ、全く何も書かないのでは寂しいから、その「パチプロ日記・サーカスIII編」のまとめとして、91年4月~93年3月までの「対戦履歴」を、簡単な一覧にまとめた。それが、以下のデータだ。
★田山プロと三洋「サーカスIII」との戦い(1991年4月~1993年3月)
1991年
4月初めの新装で、サーカスIIIが新台導入
・それまでローリングマシーン(三共)があったシマに、計20台導入。
・設置個所…池袋「山楽」(S店)地下のハネモノフロア。階段を下りた、壁付きシマ(背中のシマは「パチンコ大賞」だったが、この年の秋に「ニューモンロー」が代わりに入る。以後、サーカスとモンローは背中合わせのシマとなる。)
・台番号…318番(右カド)、320番、321番、322番、323番、325番、326番、327番、328番、330番、331番(シマ中央に玉貸機)、332番、333番、335番、336番、337番、338番、350番、351番、352番、353番(左カド)の、計20台(台番は「4,9」飛ばし)。
・開店は午前10時。換金率は2.5円。ハネモノの終了個数は4000個。
4/23 335番(2000円ヤメ) 325番(200円ノマレ)
(以後、91年度の日記中に、サーカスIIIの実戦記録なし。常連の「赤毛」が、当初サーカスを好んだ話は出てくる)
1992年
(1月、2月分はサーカスの実戦なし)
3/22 338番(1200円⇒3200個) 再338番(4600円⇒2600個)
3/23 338番(2400円ヤメ)
4/27 351番(2000円ヤメ)
4/30 335番(400円⇒3000個) 再335番(2600円ヤメ)
5/27 321番(200円⇒1300個)
5/28 321番(200円⇒1000個) 352番(400円⇒800個)
6/22 318番(1200円ヤメ) 336番(600円ヤメ) 再318番(1000円⇒約1000個)
6/23 336番(2600円ノマレ) 再336番(1400円⇒1800個)
6/24 338番(800円ノマレ→追加1000円⇒4200個) 再338番(1600円⇒800個)
6/25 320番(1200円ノマレ→追加600円ノマレ⇒追加2200円ヤメ)
7/28 322番(1200円ヤメ) 337番(400円ヤメ) 352番(400円ヤメ)
(8月分は対戦無し)
9/9 338番(2200円ノマレ→追加6200円ノマレ→追加800円⇒4200個)
再338番(800円ノマレ→追加2000円ヤメ)
9/25 351番(800円ノマレ→追加800円⇒4700個) 再351番(600円⇒1700個)
9/26 326番(1000円ノマレ)
10/9 327番(400円⇒4200個) 再327番(2000円ヤメ)
10/10 351番(1400円ヤメ) 再351番(800円⇒3100個)
10/11 330番(800円ヤメ) 351番(3000円⇒3200個)
10/23 351番(1200円ノマレ) 323番(200円⇒2200個)
10/24 323番(600円ヤメ) 330番(400円⇒4000個) 再330番(1400円ヤメ)
351番(800円⇒1800個)
10/27 330番、336番、352番と打ちまわる(収支不明)
10/28 330番(1200円ヤメ)、再330番、352番と打ちまわる(収支不明)
10/30 327番(3800円⇒800個)
11/16 323番(300円⇒残り200個持って、モンロー368に移動)
11/18 330番(1400円ヤメ) 再330番(2200円ノマレ)
12/1 331番(1400円ヤメ) 再331番(1600円ヤメ) 再331番(1000円ノマレ)
1993年
1/25 331番(2000円ヤメ) 330番(400円⇒2000個)
再331番(持ち玉100個+追加200円⇒2000個
2/8 335番(1200円⇒4200個) 再335番(3400円⇒4500個)
再々335番(5000円ノマレ→追加1800円ノマレ)
2/9 335番(3400円⇒4100個) 再335番(2000円⇒4600個)
再々335番(2600円ノマレ→追加1000円ヤメ)
2/24 327番(200円ノマレ→追加1800円ノマレ→追加2000円⇒2300個)
3/13 338番(2000円ノマレ→追加1000円⇒4200個) 再338番(2000円ヤメ)
再々338番(200円⇒3000個)
3/15 338番(2200円⇒4300個) 再338番(2200円)
3/22 322番(1200円ヤメ)
3/23 323番(200円ノマレ)
(三月末の新装で、サーカスIII撤去。後釜は、1Fで外れたデジパチ「ブルーハワイ」)
※註
「1000円⇒4000発」…投資1000円で4000発を獲得
「800円ヤメ」…800円投資して、大当りゼロでヤメ
「800円ノマレ」…800円投資で大当りするも、結局は呑まれてヤメ
「再338番」…一度席を立った338番に、再挑戦
「再々338番」…二度座った338番に、三たび挑戦
91年4月アタマの新規導入後、91年12月までの日記において、田山さんがサーカスIIIを打ったのは、新装当初の1日のみ。その後、全くと言ってよいほど実戦の記述は出て来ない。ただ、その理由は、日記から推測できる。
「(今のところ)、サーカスを打つ場合に限り、以下のようなルールが設けられている。
①他の台から玉を持ち込んではいけない。
②玉を持って他の台に移ってはいけない。
③四千個打止めで、交代。
何だ、このルールは。デジパチの悪い所と一般台の悪い所を取り合わせただけじゃないか!これでは、バカバカしくて、とうてい打つ気になれない。」(1991年4月21日の日記より)
という訳で、この頃の田山さんは、サーカスのシマにさほど魅力を感じず、主に1Fのデジパチ(フィーバーチャレンジII、パラダイスI、ブラボークイーンなど)を頼りとした。また、地下ハネモノでは、依然残っていた旧要件のパチンコ大賞(オヤジ)、ビッグシューター、ローリングマシーン辺りを中心に打ち回っている。
その後、年が変わり、1992年2月24日の日記にて、ようやくサーカスIIIに関する記述が登場。
「ハネモノは相変わらず旧要件の二シマ(オヤジ・ビッグシューター)が中心。新要件はモンローの一シマだけにとどめているのが現状。その背中のサーカスもあらかた釘を呑み込んではいるが、かかってもパンクばかりするので、好きになれない。」
この時点では、サーカスをちょくちょく打っていたにせよ、度重なるパンクに嫌気がさして、「主力機種」にはしたくない感じも見受けられる。一方、後から入ったモンローは、既にして「守備範囲」となっていた。
一方、翌月の日記には、こんな記載がある。
「今朝もまた若干の遅刻でS店着。ジャンパーのポケットに両手をつっこみながら、のろのろと階段を下りた。下りた所がモンローとサーカスのシマ。近ごろはこの二シマから釘を見始めることが多くなっている。(中略)それならば、サーカスの338番の方が堅い。338番は、木・金・土と自分が札を入れている台。食い付いてしまえば、一度は終了する。だが、二度目がきかない。」(92年3月22日の日記)
前月は「好きになれなかった」サーカスの釘を、朝からまめにチェックして、しかも同じ台で3日続けて終了札を入れている。どうやらこの辺りから、ある程度の結果が伴い始めて、田山さんにとって「使える」機種になってきた感じ。実際、日記でもここからほぼ毎月、サーカス実戦の様子が書かれている。設置から実に一年近く経って、やっと本腰が入って来たという事だ。この辺り、大勢が意地汚く殺到する新台を嫌う、田山さんらしい付き合い方だ。
その後、田山さんの勝負機種は、このサーカスIIIと背中のモンローがメインになる。ただ、実戦機会も収支も、明らかにモンローの方が上だった。それでも、辛抱強くサーカスの「アキ」を朝から探し続けて、タテの比較でチャンスを見いだしては、勝負をかける展開が続いた。それは、上記のデータにある通りである。
ただ、データだけを見ると、単に無機質な数字や文字、記号の「羅列」に過ぎない。しかし、実際には「波乱万丈」ともいえる展開の連続であった。順調に予定終了するケースは寧ろ少なく、厳選した勝負台で即パン連続やバネの豹変に泣かされたり、打ち止め寸前からまさかのスランプに捕まって、天国から地獄へ突き落されたり…と、苦労の連続が見てとれる。
そんな中でも、上昇波に入ると、完走パンクを「こき混ぜて」終了まで持っていくことも多かった。パンクの連チャンで出玉が一気に増える事も。また、パターン認識ピッタリの線(1750個落ちなど)で大当りして、台が復活したりすると、「してやったり」と喜びを見せた。
一方で、順調に同じ台を2回終了させた後、3回目の挑戦で3000個以上あった玉を呑まれて、さらに追加投資してギブアップしまった日もある。その「後味の悪さ」が余程こたえたのか、翌日S店に向かう電車の中で、「あの台のクギは、今日どうなっているだろうか」という事ばかり考えるシーンも印象的だ。朝イチの釘見で「据え置き」と判るや、思わず「やった!」と心の中で叫んでいる(93年2月9日の日記より)。
さて、あらためて上記データを計算してみると、(不明分もあるが)総投資額が109500円、総出玉が85000個(2.5円換金で212500円)となり、収支は「プラス10万チョイ」。「日記」という限られた時間での勝負とはいえ、正直「え、そんなもの?」と、物足りなく思える数字ではある。
確かに、この当時の田山さんには、収支的に「スランプ」といえる時期があった。92年9月7日~9月9日までの日記(三日間)では、連載後、初めての「(日記分)トータルマイナス収支」となってしまった。
しかし、田山さんはサーカスIIIだけを追っていたのではなく、寧ろ、本命にしたのは、背中のシマの「ニューモンロー」の方だった。先程も書いたが、コチラの収支はサーカスよりも明らかに上。また、後に入った同じ西陣のハネモノ「カバ丸くん(P3)」でも、割と良好な戦績を残した。それらに比べると、サーカスIIIと闘う田山さんは、当初の思惑通りに行かず、苦戦を強いられるケースが多いようにも思える。
ただし、繰り返すが、これはあくまでも「日記掲載分」の話であり、実際の勝負の内、ほんの一部に過ぎない。この数字だけを以て、サーカスIIIの戦績を評するのは、いかにも短絡的だろう。
事実、田山さんにとってのサーカスIIIは、当時のS店設置台の中でも、「一番安心できる」台であったという。以下は、必勝ガイド誌92年12月5日号の「パチプロ日記」欄外に書かれた、「田山プロ・風の便り」より。
「先月の新装開店で旧要件機のビッグシューター、パチンコ大賞に替わってS店地階ハネモノコーナーに入ったのは、玉ちゃん倶楽部とカバ丸くん。今どきの羽根モノにしてはいずれも比較的おとなしい機種のはずだが、それでも田山プロにいわせれば「カバ丸くんはスランプがきつすぎる」。相変わらず安定志向のパチンコを続ける田山プロにとって、今のところ打っていて一番安心できる機種はサーカスⅢであるとのこと。」
そうそう、田山さんお得意の「タテの比較」(クギを他台と比べる(横の比較)ではなく、その台の前日のクギと比較する)に関して。
当時の「山楽」では、サーカスIIIのクギ調整は、主に「左風車上の誘導クギ(一本釘)」のアケシメで行われており、田山さんのチェックにおいても、この点が重要だった。以下は、日記の抜粋。
「さて、地下へと下りて行くと、今日はサーカスを集中的にアケた感じ。332番、337番、338番と、二台ずつ並べて計四台。例によって、風車上誘導クギ。この店では、サーカスの場合、ここを釘調整のポイントとしている。故に、出るかどうかが覚つかないケースも多いわけだが、デキの良い台ならば、この一点で出てしまう。」(1992年6月24日の日記より)
「やはり今日はサーカスに決めた。351番はこの風車上誘導クギで十分。オトシやヘソに難点もない。食い付きだけの問題だと思う。」(1992年9月25日の日記)
もちろん、ヘソやオトシが無関係ではなく、風車上が同じアキならば、当然ヘソ・オトシのより甘い台を優先した。また、台自体の「デキ」(役物のクセなど)も重視した。たとえクギがアイても、デキワルならば要注意、といった感じだ。
さらに、田山さんが立ち回りの上で強い「拠り所」としたのが、スランプ時に打ち込んだ玉数で、台の状態の変化を掴むという、「パターン認識」である。このサーカスIIIについても、スランプに陥った台が復活する、いわゆる「フシ」(打ち込み玉数)が、幾つも挙げられている。
とりわけ、サーカスでは現金7千円分の「1750個落ち」や、5千円分の「1250個落ち」を強調していた事が印象深い。このフシを目安にして、いったん出玉が呑まれても続行したり、フシに近い空き台の後釜を狙ったりしていた。
「何発打ち込んだから、台の状態が変わる」との考えは、ややもするとオカルトめいた印象を与える。だが、手打ち時代からの長い積み重ねで、田山さんのプロ生活を確実に支えた「経験則」に対して、とやかくケチをつけるのはナンセンスだろう。
結局、池袋「山楽」地下のサーカスIIIは、93年3月末の新装をもって、1Fから移ってきたブルーハワイと入れ替えられて、撤去と相成った。
以前の田山さんなら、こうして長く追い続けた台が外される時は、「ありがとう」「さらば」といった「労い」の言葉をかけたものだが、この時の日記で、そうした言葉は遂になかった。
思うに、当時の田山さんは、住み慣れたブクロの自宅を去って用賀に移ったばかりで、「電車通勤するパチプロ」の状態。さらに、ネグラ自体の移動も、まさに間近に迫っていた。そんな心理的な負担や多忙さもあり、長らく付き合ったサーカスに対する思念も、一時的に薄れてしまったのではないか。決して、サーカスに対する愛情が、完全に失せた訳ではないと思う。
(実際、ガイド93年3月号(2回発行)では、日記が開始して以来、初めて連載を休んだ)。
ともかくも、形式的に約3年、実質約2年の付き合いをしたサーカスIIIとも、これにて「お別れ」となった。末期には、「マグレ台」や「ハンパ台」といった表現が日記でも多く使われ、クギの状態がかなり悪化していたことが窺える。
…とまぁ、書こうと思えばまだまだ書けるが、文字数はすでに25000字を超えてしまった。「追悼記事」としては、少々踏み込みすぎた感もあるので、この辺りで終わりたい。
そんな訳で田山さん、今回は、あなたの好きだったハネモノ「サーカスIII」を、当時の日記と併せて、私なりに振り返ってみました。よろしければ、天国で酒でもチビチビ飲みながら、のんびりと読み返して下さい。合掌。