クソ暑い8月も後半に入ったが、相変わらず、汗だく必死のキツイ日が続いている。
ところで、私には、毎年この時期になると、必ずといってよいほど思い出す「出来事」がある。
まぁ、子供の時分の、他愛もない思い出だが…ちょっと振り返ってみようか。
1981年(昭和56年)8月某日。
40日間の長い夏休みも、あと少しで終り。山積みの宿題にも、やっと手を付け始めた頃だ。
当時、小学4年生(10歳)だった私は、「兄貴分」だった近所の先輩「N」(中1、男)に、「ちょっとアルバイトでもしないか」と、いきなり声をかけられた。
私とNは、ちょっとした「親分・子分」の関係で、私に様々な「悪い遊び」を教えたのもNだった。
「バイト」の内容はというと、近所を歩いて回って、そこらに落ちている「空きビン」を拾い集める、という単純なもの。
そう、私と同世代の方々なら、すぐに「ピン」とくるハズだ。
当時の清涼飲料といえば、今のようにペットボトルがまだ出回っておらず、ガラス製の「ビン」や、硬い「スチール缶」(軟質アルミではない)が主流。
瓶専用の自販機も多く、それこそ、街中にジュースの瓶が溢れていた(当然、ビール瓶も多く出回った)。
で、飲み終えた空き瓶を酒屋に持っていくと、10円とか30円とか幾ばくかのお金を、「ビン代」(保証金)として返金して貰えたのだ。
(制度自体は今も残っているようだが、瓶の流通量は大きく減少)
まぁ、売る時はビン代をちゃんと上乗せしてあって、後からキャッシュバックして貰う格好だ。
これが、子供のちょっとした小遣い稼ぎとしては、まさにうってつけだった。私と同様、この時期に「ビン拾い」を実行した方は多いハズ。
「炎天下でビン拾い」など、ちょっと大変な気もしたが、他ならぬ「兄貴分」の誘いである以上は、一も二もなく引き受けるしかなかった。
Nの父親が建築の仕事をしていた事もあって、Nは一台の古い「リヤカー」を用意していた。
これを2人で引いて回って、少しでも多くのビンを回収しよう…という訳だ。
相変わらず、子供のくせにズル賢い人である。
しかし、「実利」と「冒険」を兼ねたバイトに、私は何やらワクワクするのを覚えた。
さっそく、我々は「近場」から攻めていった。
自宅近くの空き地、アパートの入口、アパート裏の草むら、建設工事の現場、野球場、道路の側溝(ドブ)、ごみ箱、屑かご、町内のゴミ集積場、林…こういったポイントをくまなく「捜索」した。
すると、案の定、至るところに、お目当てのビンが散らばっている。時期的にも、こうした冷たい飲み物がバンバン売れる季節だったから、なおさらである。
コカコーラ、スプライト、ファンタにHI-Cなど、当時の「定番」だった清涼飲料の1リットル瓶や500ミリ瓶。大きい1リットル瓶は「30円」、500ミリなら「10円」が、ビン代として手に入る。
(小さい190ミリ瓶も拾った気もするが、記憶が定かでない)
今ならハシタ金に過ぎないが、小銭で楽しめる駄菓子屋・ゲーセン通いだった我々にとっては、まさに貴重な「資金」であった。
暑さのことなどすっかり忘れて、草むらをかき分けたり、側溝を覗きこんだり、ドブをさらったり、バラ線をくぐって工事現場に入ったり、アパートの敷地に勝手に忍び込んだりして、お目当てのビンが見つかると、喜々としてリアカーに積み込んだ。
ちょっとした「宝探し」の感覚もあって、疲れはしたが大いに楽しかった。1リットルの大瓶を発見した時の嬉しさといったら…。
ただ、そんな様子を見ていた近所の人達は、明らかに不審がっていた。
時には、ビール瓶や一升瓶なんかも落ちていたのだが、「子供が酒屋に持ち込むのはマズイ」という事で、その酒屋で売られている清涼飲料の瓶だけを、徹底して拾い集めた。
(そういう理由で、「プラッシー」や「ミリンダ」も拾わなかった筈だが…若干、記憶が曖昧)
やがて、近場で拾うだけでは飽き足らず、駅近くや学校周辺にまで、「捜索範囲」を拡げた。
重たい瓶が積まれたリアカーを、子供二人で長時間引いて回るのは、流石に大変だった。
それでも、数時間かけて回収を終えると、オンボロリアカーの荷台には、百数十本はあろう大量の空き瓶が、ギッシリと積まれていた。思惑通りの「大収穫」である。
前でリアカーを引き続けるNも、後ろから荷台を押す私も、既にヘトヘトだったが、それは「心地よい」疲労であった。また、「ガチャガチャ」と瓶のぶつかる音も、疲れた我々を後押しする「応援歌」に聞こえた。
我々はその足で、苦労して街中で拾い集めた沢山のビンを、馴染みの酒屋に持ち込んだ。
(酒屋の隣には、回収した大量の空き瓶をうず高く積んだ、集積所があった)
しかし、子供2人がリアカー引いて、山積みのビンを持ち込むなど、どう考えても「怪しい」。
酒屋のオッサンも、当然そう思ったに違いない。
だが、そこは悪知恵の働くN。うまくごまかしてくれたようで、酒屋は一本一本ビンを数えた後、幾ばくかのお金を、すんなりとNに手渡した。話の分かるオヤジである。
正確な金額は覚えてないが、あれだけの量ならば、2000円は超えていたのではないか。
1個10円のマルカワ・オレンジガム(丸、4個入り)が、200個以上買える「大金」である(笑)。
そして、ようやく私が念願の「バイト料」を受け取る段になった。
「これだけ汗かいて頑張ったんだ。いったい幾ら貰えるかな?」と、期待する。
ところが、店の外に出て、Nがヒョイっと無造作に手渡したのは、あろう事か、たったの「200円」であった。
これには流石に面食らったから、この金額は、今でもハッキリ覚えている。
「リアカー代が高い」とか、Nは意味の判らない言い訳をしていた(明らかにタダで用意した筈)。
しかし、学年も立場も下だった私は、「もっと頂戴」とは、とても言えなかった。
おそらく、Nは最初から、稼いだ大半を一人でせしめる計画だったのだろう。
根っからのお人よしだった私は、まんまとその作戦に引っかかった訳だ。
「子分」というポジションの弱さを、真夏のクソ暑いこの日、あらためて痛感させられた。
結局、私は100円玉二枚という「報酬」を握りしめると、酒屋近くにある、古びたコインランドリーに、一人で直行した(Nはホクホク顔で帰っていった)。
そこで50円玉4枚に両替すると、客の待ち時間用に置いてあった1クレジット50円のテーブルゲームを4回やって、どこか釈然としないまま帰路に着いた。
因みに、そのゲームは、当時好きだったシューティングゲーム「銀河帝国の逆襲」(アイレム)。
https://www.youtube.com/watch?v=LImiuqCFLhg
(嬉しい事にYoutubeに動画があった)
その時は、ゲームの正式名称も知らずに、敵が真下からこちら(自機)の尻を突いてくるので、「つっつき虫」と呼んでいた。
いつもはNを兄貴分と慕っていた私も、この時ばかりは、タダ働き同然でこき使った奴の尻を、フォークの先で思いっきり「つっ突き」たくなった。
とまぁ、実に他愛もない話だが、毎年この季節がやってくる度に、30年以上も前の小さな事件が、自然と思い出されるのだ。今でも元気かな、N・・・。
(追記)
この1981年にハマっていた別のゲームを、久々に思い出した。忘れないうちにメモメモ。
(動画もリンク)
・ジャングラー(コナミ、アクションゲーム、1981年)
https://www.youtube.com/watch?v=UHIGXoehr5Q
翌年(1982年)のお気に入りだったのが、これ。少年野球の練習帰りに、駄菓子屋兼八百屋の小さな店で、毎週必ず遊んでいた。帰り際、そこでウェハース菓子の「エリーゼ」を買って、サクサク食べながら家に帰る…という流れだったな。
・バーガータイム(データイースト、アクションゲーム、1982年)
https://www.youtube.com/watch?v=iFg0p6sIaog
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この時期、ふと思い出す事
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